ハッザ族は今も存在しますか?
早朝。夜明けの光で淡いピンク色に染まるサバンナを、4人の男たちが走っています。頭には鮮やかなヘッドバンド、肩には動物の毛皮や、過去の狩りで得た獲物の飾りをまとっています。そばでは、脚の長い小型犬たちが小走りで並走します。人も犬も周囲に鋭く目を配り、茂みのわずかな動きも見逃すまいとしています。
突然、狩人の1人が足を止め、素早く弓を引いて矢を放ちます。矢は、オウムに似た小さな鳥を正確に射抜きました。狩人は獲物を腰に留めると、再び走り出します。
30分ほどの間に、ハッザ族の男たちはさらに鳥1羽とリス数匹を射止めました。とはいえ、これだけでは部族全体の食料には足りません。より大きな獲物を追う必要があります。
その時、1人の男が大きな岩の積み重なった場所へ続く足跡に気づきます。何かがそこに隠れています。狩人たちは犬を呼び、岩場を調べるよう命じます。身軽な犬たちは岩の割れ目に入り込み、やがて勝ち誇るような吠え声を上げました。獲物が見つかったのです。狩人たちは声を上げながら獲物を隠れ場所から追い出し、矢で仕留めます。獲物はシロオマングース。人にも犬にも十分な肉になります。今日の狩りはここで終わりです。
この場面は、遊動する狩猟採集民が各地に暮らしていた数千年前の出来事のように見えるかもしれません。しかし、ここは21世紀のタンザニア。ハッザ族の暮らしです。
ハッザ族はどのように知られるようになったのでしょうか?
この部族の物語は、ハッザ族の故郷から始めましょう。ハッザ族はタンザニア北部、エヤシ湖の近くに暮らしています。長く外の世界から隔てられていたため、狩猟採集民としての暮らし方と文化を保ってきました。
ハッザ族に関する最初の記録は、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が進んでいた1897年にさかのぼります。当時、ハッザ族が暮らす現在のタンザニア地域はドイツの統治下にありました。そのため、彼らの暮らしを最初に調査したのはドイツ人研究者でした。言語学者・人類学者のオットー・デンプヴォルフと、地理学者のエーリヒ・オプストです。後者はハッザ族の土地で数週間を共に過ごし、その生活様式について詳しい記録を残しました。
1930年代後半には、別のドイツ人研究者ルートヴィヒ・コール=ラーセンが、ドイツ研究振興協会の支援を受けて東アフリカへの調査に出ました。彼は医師であり、在野の人類学者として、当時「原始的民族」と呼ばれた人々を研究していました。ハッザ族の居住地域を訪れ、民間伝承を集め、人類学的な仮説を提示しようとしました。
コール=ラーセンはナチ党員で、その思想を支持していました。研究の中で彼は、すべての人類は同じ起源を持つとしながらも、アフリカの先住民はヨーロッパ人より劣っているため、なお原始的な暮らしをしているのだと主張しようとしました。
第二次世界大戦後、ルートヴィヒ・コール=ラーセンは研究者としての地位を失いました。現代の科学界は、彼の結論を認めていません。
1960年代に入ると、ハッザ族の生活に関する調査はさらに活発になりました。人類学者、言語学者、遺伝学者をはじめ、さまざまな分野の研究者がハッザ族の土地を訪れ、部族を観察しました。彼らは生活様式、伝統、社会構造、そして独自のハッザ語を研究しました。
ハッザ族は何で知られていますか?
ハッザ族には定住キャンプがなく、遊動生活を送っています。
ハッザ族の暮らし方は、数万年にわたり大きく変わっていないといわれます。現在の人口はおよそ1,200〜1,300人です。通常は20〜30人ほどの集団で暮らしますが、長距離を移動する時期や干ばつの際には、100〜150人ほどの大きな集団になることもあります。
ハッザ社会の階層
集団内には、現代的な意味での階層はほとんどありません。ハッザ族は年長者を敬い、最も優れた狩人の意見にも耳を傾けます。しかし、明確な身分差はありません。女性と男性は対等です。対立が起きた場合、当事者は別の集団へ移ることができます。ただし、そのために集団は不安定になり、解散につながることも少なくありません。
ハッザ族の住居
ハッザ族は、遊動する狩猟採集民です。雨季には洞窟に住むこともありますが、1年の大半は小屋で暮らします。枝で骨組みを作り、乾いた草で覆う簡素な住まいです。必要があれば、部族は新しい場所へ移動します。たとえば狩りでアフリカスイギュウやキリンのような大きな動物を仕留めた場合、重い死骸を運ばずに済むよう、獲物の近くへキャンプを移すこともあります。
部族の主な食料源は狩猟と採集です。
ハッザ族は肉、塊茎、バオバブの実、ベリー、蜂蜜を食べます。食事の内容は季節によって変わります。乾季には動物が限られた水場に集まるため、狩人はより多くの肉を得やすくなります。大きな獲物としては、アンテロープ、サル、ブッシュピッグなどが一般的です。雨季には、植物性の食料に頼る割合が高くなります。
ハッザ族が好むごちそう、蜂蜜
ハッザ族は、甘みと栄養価の高さから蜂蜜をとても好みます。1日の食事の最大20%を占めることもあります。ハッザ族が野生のハチを探し、蜂蜜を採る方法は非常に興味深いものです。ミツオシエという鳥が、部族の人々に蜂の巣の場所を知らせます。この鳥は巣を見つけると、特有の鳴き声で人をそこまで導きます。蜂蜜を採る人が煙でハチを追い払い、蜂蜜を集めると、鳥は壊された巣に残った蜜ろうやその他の残りを食べます。
蜂蜜採集と狩猟は、通常ハッザ族の男性が行います。一方、女性はベリー、バオバブの実、塊茎、カメ、鳥の卵を集めます。食料を探す際は集団で出かけ、数人の女性に少なくとも1人の成人男性が同行します。
狩りでは、その日に食べられる分だけを得ます。
ハッザ族の男性は、自作の弓矢を使って狩りをします。弓の弦は動物の腱で作られ、矢は木製で、先端には石の矢じりが付けられています。矢じりには必ず毒が塗られ、その毒は木の皮から抽出されます。弓で大きな獲物を仕留めることができると、その動物の皮から切り取った帯で弓を飾ります。こうして「運のよい」弓ほど、美しい弓になっていきます。
ハッザ族で狩猟を行うのは男性だけです。彼らは幼い頃から訓練を始め、最初は鳥、ネズミ、ウサギなどの小動物を1人で追います。より大きな獲物を狙う時は、集団で出かけます。犬を連れていく狩人もいますが、これはハッザ族にとって比較的新しい習慣で、他の部族から取り入れられたものです。
ハッザ族の狩人は毎日狩りに出ます。捕らえた獲物はキャンプへ持ち帰らず、その場で調理して食べます。肉の大部分は狩人のものになり、残った分は部族内で分け合います。ハッザ族は肉を後日のために保存せず、1日に食べ切れる分だけを得ることを基本としています。
Altezza Travelでは、ハッザ族の暮らしを実際にご覧いただけます。当社では2014年から、エヤシ湖へのエクスペディションを手配しています。この旅では、ハッザ族とダトガ族の習慣を学び、伝統的な狩猟の様子を観察できます。私どもは狩猟そのものを奨励しているわけではありませんが、伝統的な暮らしを続ける部族の文化を尊重し、その本来の姿を守ることを大切にしています。
ハッザ族の家族構造は現代社会に近いものです。
現代の都市に暮らす人々と同じように、ハッザ族は連続的な一夫一妻制をとっています。つまり、男女がペアになって暮らし、子どもを共に育てます。ただし、そのペアは解消されることがあり、その後は男女それぞれが新しい相手を見つけます。
子どもは通常、両親と同じ小屋で暮らしますが、祖父母、叔母、叔父に世話をされることもあります。2〜3歳未満の子どもが1人で放置されることはありません。年長の子どもは、大人が採集に出ている間、キャンプに残ることがあります。5歳頃からはベリーや根を集め始め、自分の食事のかなりの部分を自分でまかなうようになります。
成人したハッザ族の若者は、親と暮らし続けることも、別の集団に加わることもできます。こうした選択について、厳格な決まりはありません。
ハッザ語:独自のクリック音を持つ言語
ハッザ族は、独自の孤立言語を話します。これは、既知のどの語族にも属さない言語という意味です。ハッザ語では、ヨーロッパの言語に見られる母音や子音に加え、クリック音や破裂音が使われます。そのため、ハッザ語はアフリカの他のクリック音を持つ言語に似ています。しかし地図を見ると、そうした言語は主にアフリカ南部に分布している一方、ハッザ族は大地溝帯とセレンゲティ平原に近い大陸東部に暮らしていることが分かります。こうした理由から、言語学者はハッザ語を他のアフリカ諸語と系統的に関連するものとは考えていません。
ハッザ語には文字体系がありません。口承としてのみ存在し、部族の暮らしを反映しています。たとえば、狩りで得た死んだ動物を表す語が何十種類もあります。また、自分たちの歴史に関する語りや、多くの民間伝承も受け継がれています。
現在、ハッザ語を話す人は約800人で、成人したハッザ族の大多数にあたります。若い世代は、より広く使われているアフリカの言語であるスワヒリ語へ徐々に移行しています。研究者は、部族が伝統的な暮らしを続ける限り、ハッザ語は保たれる可能性があると考えています。
外の世界は部族の暮らしにどう関わってきたのでしょうか?
第一次世界大戦後、タンザニアの領土はイギリスの管理下に入りました。イギリス植民地政府は、ハッザ族をキリスト教へ改宗させ、定住させ、農業に従事させようとしました。1927年と1939年には、ハッザ族のための定住集落を設ける試みが2度行われましたが、いずれも失敗しました。ハッザ族は集落を離れ、慣れ親しんだ遊動生活へ戻ったのです。
1965年には、タンザニア政府がハッザ族の暮らし方を変えようとする3度目の試みを行いました。ハッザ族の人々は武装した護衛のもと村落集落へ移され、そこに宣教師が学校と病院を建てました。しかし、慣れない集落内の閉ざされた生活により、呼吸器感染症とはしかの流行が起きました。多くのハッザ族が亡くなり、残った人々もほどなく集落を去りました。
ハッザ族の生活様式を変えようとする試みは、今も続いています。農民や牧畜民になる人もいますが、多くは伝統的な狩猟採集の暮らしを続けることを選んでいます。
現代のハッザ族の子どもたちには、学校へ通う機会があります。読み書きを学ばせる家庭もあれば、役に立たないと考える家庭もあります。部族の多くは共同体の中にとどまるため、彼らにとっては英語やスワヒリ語を知ることより、狩りをする力、蜂蜜を採る力、小屋を建てる力の方が重要なのです。
ハッザ族はどのように自分たちの土地を守ったのでしょうか?
遊動生活を維持するには、広い土地が必要です。かつてハッザ族は、大地溝帯中央部のエヤシ湖周辺と、隣接するセレンゲティ高原に広がる土地を利用していました。しかし近年、その生息域は縮小しています。ハッザ族の西側の土地は現在、私営の狩猟保護区となっており、部族による狩猟は禁止されています。
かつてツェツェバエのために牧畜に適さなかった谷には、今ではダトガ族の牧畜民が入っています。ハッザ族の食料だったベリーや根は、家畜の放牧地では姿を消していきます。農耕・牧畜用の動物が利用する大きな水場は、部族が以前使っていた小さな水源を枯らしてしまいます。
居住環境を守るため、2011年にハッザ族の代表者は慣習的土地占有権に基づき、土地への権利を主張しました。現在、彼らはタンザニア国内で約23,000ヘクタールの土地を正式に所有しています。
ハッザ族は健康なのでしょうか?
意外に思われるかもしれませんが、いくつかの点では多くの都市生活者より健康に見えます。科学者たちは、アフリカの狩猟採集民の生活様式が、より長く健康を保つ助けになっていることに注目しています。現在は、その知見を現代の都市生活者の生活の質向上にどう生かせるかを探っています。
ハッザ族はアルコールを飲みますか?
ハッザ族は観光客を温かく迎えます。しかし、外の世界との接触が増えるにつれ、彼らの暮らしは少しずつ変化しています。伝統的な腰布の代わりに、訪問者と交換した短パンやTシャツを着る部族の人もいます。彼らはお金や多くの物質的な所有物に大きな価値を置きませんが、アルコールを含む贈り物は喜んで受け取ります。アルコール飲料は伝統的なハッザ族の食生活には含まれていなかったため、これが大きな問題となりました。
ハッザ族と一緒に暮らすことはできますか?
はい、ハッザ族と共に暮らすことは可能で、これまで多くの探検家や科学者がそうしてきました。ハッザ族は観光客やブロガーも引きつけています。たとえば、アメリカの俳優でミュージシャンのデヴィッド・チョーは、現代社会への依存から距離を置き、自分を立て直すため、しばらく部族と暮らしました。彼によれば、最初は原始的な暮らしに十分に入り込むことができず、テントで眠り、現代的なキャンプ食を食べていたそうです。しかしその後、自分は本来のやり方に従っていないと考え、狩りをし、洞窟で眠り、共同の鍋から食事を取るようになりました。次第に、ずっと穏やかで落ち着いた気持ちになっていったといいます。
人類学者たちは現在もハッザ族を精力的に研究しています。たとえば、人類学者で人間行動学者のマリーナ・ブトフスカヤは定期的に部族を訪れ、ハッザ族の人々と数週間暮らしています。彼女によれば、一見原始的に見える生活様式には強い魅力があり、他のアフリカ諸民族の人々がハッザ族に加わることも珍しくありません。彼らはすぐに部族へ溶け込み、ハッザ族の出身ではないにもかかわらず、自らをハッザと呼ぶようになります。
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